☆倭姫の宝珠の願い☆

2012年11月24日土曜日

世も末の夢舞台


世も末の夢舞台


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花伝書(風姿花伝) 世阿弥の序に

それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるは仏在所より起り、あるは神代より伝ふといへども、時移り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力およびがたし。ちかごろ万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり。
されば、古きを学び、新しきを賞するなかにも、全く風流をよこしまにすることなかれ。
ただことばいやしからずして、すがた幽玄ならんを、うけたる達人とは申すべきか。まずこの道にいたらんと思はんものは、非道を行ずべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もつともこれを用ふべし。
およそ、若年よりこのかた、見聞きおよぶところの稽古の条々、大概注しおくところなり。

一、好色、博奕・大酒、三の重戒、これ古人のおきてなり。
一、稽古は強かれ、情識はなかれとなり。

と記されている。



伊勢の神風

総理官邸に居座り、大酒をたしなみ、現代の政治政権舞台の虫垂で、主権者国民の期待を裏切り、縦割り・たこつぼ行政・縄張り既得権益擁護・既得権益利権拡大等の機能不全の行政に対する怠慢的な放置・放任の政治。

吸血鬼・寄生虫の如くの税金収奪詐欺罪同等の天下り行政官僚の越権的な行政権益への干渉・支配・利権収奪。

魑魅魍魎の詐欺罪同等の行政官僚群等に絡め取られて踊らされ、敵陣自民・公明党に翻弄され、敵陣になびき、主権者の強固なる意志を退けて、原子力発電依存継続。消費増税。公約不履行の平然とした嘘つき方便、無益・無能・無責任な自画自賛の酔狂・酔人・狂人の魑魅魍魎詐欺犯罪賊徒・ハイジャック野合政権民主党党首の野田佳彦である。

野田佳彦及びその政権で政治権力を貪る政治家の活動の場や居住まいは、国会や総理官邸ではなく、犯罪人として牢獄がふさわしい。

野田佳彦及びその政権の虫垂で、不全なる政治権力を貪る政治家は牢獄に送り込まれる悪人に値する。

牢獄に送り込まれるべき悪人が 総理官邸に居座り、大酒をたしなみ、主権者を愚弄する現世である。

世も末の劣悪の悪夢のような許されぬ政治政権舞台が進行中である。


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以下抜粋

第七 別紙口伝

一、この口伝に、花を知ること。まづ仮令、花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりをわきまふべし。そもそも、花といふに、万木千草において、四季をりふしに咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知るところ、すなはち、おもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。能も住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。
ただし、様あり。めづらしきといへばとて、世になき風体をしいだすにてはあるべからず。花伝にいだすところの条々を、ことごとく稽古し終わりて、さて、申楽をせん時に、その物数を、用々に従ひてとりいだすべし。花と申すも、万の草木において、いづれか四季をりふしの、時の花のほかに、めづらしき花のあるべき。そのごとくに、習ひおぼえつる品々をきはめぬれば、時をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風体をとりいだす。これ時の花の咲くを見んがごとし。花と申すも、去年咲きし種なり。能ももと見し風体なれども、物数をきはめぬれば、その数をつくすほど久し。久しくて見れば、まためづらしきなり。その上、人の好みも色々にして、音曲・ふるまひ・ものまね、所々に変りてとりどりなれば、いづれの風体をも残してはかなふまじきなり。しかれば物数をきはめつくしたらんしては、初春の梅より秋の菊の花の咲きはつるまで、一年中の花の種を持ちたらんがごとし。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、とりいだすべし。物数を究めずば、時によりて花を失うことあるべし。たとへば、春の花のころ過ぎて、夏草の花を賞翫せんずる時分に、春の花の風体ばかりを得たらんしてが、夏草の花はなくて、過ぎし春の花を、また持ちていでたらんは、時の花に合ふべしや。
これにて知るべし。ただ、花伝の花の段に、「物数を究めて、工夫をつくして後、花の失せぬところをば知るべし。」とあるは、この口伝なり。されば、花とて別にはなきものなり。物数をつくして、工夫を得て、めづらしき感を心得るが花なり。「花は心、種は態。」と書けるもこれなり。ものまねの鬼の段に、「鬼ばかりをよくせん者は、鬼のおもしろきところをも知るまじき。」とも申したるなり。物数をつくして、まためづらしくしいだしたらんは、めづらしきところ、花なるべきほどに、おもしろかるべし。余の風体はなくて、鬼ばかりをする上手と思はば、よくしたりとはみゆるとも、めづらしき心あるまじければ、見どころに花はあるべからず。「巌に花の咲かんがごとし。」と、申したるも、鬼をば、強く恐ろしく、肝を消す様にするならでは、およその風体なし。これ巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の、思ひなれたるところに、思ひのほかに鬼をすれば、めづらしく見ゆるところ、これ花なり。しかれば、鬼許りをせんずるしては、巌ばかりにて、花はあるべからず。

一、こまかなる口伝に曰く、音曲・舞・はたらき・ふり・風情、これまた同じ心なり。これ、いつもの風情・音曲なれば、さ様にぞあらんずらんと、人の思ひなれたるところを、さのみに住せずして、心根に、同じふりながら、もとよりは、かるがると、風体を嗜み、いつもの音曲なれども、なほ故実をめぐらして、曲を色取り、声色を嗜みて、さが心にも、いまほどに執することなしと、大事にして、このわざをすれば、見聞く人、つねよりもなほおもしろしなど、批判に合ふことあり。これは、見聞く人のため、珍しき心にあらずや。
しかれば、同じ音曲・風情をするとも、上手のしたらんは、別におもしろかるべし。下手は、もとより習ひおぼえつる節博士の分なれば、珍しき思ひなし。上手と申すは、同じ節かかりなれども、曲を心得たり。曲といふは、節の上の花なり。同じ上手、同じ花のうちにても、無上の公案をきはめたらんは、なほ且つ花を知るべし。およそ、音曲にも、節は定まれる形木、曲は上手の者なり。舞にも、手は習へる形木、しなかかりは、上手のものなり。

一、ものまねに、似せぬ位あるべし。ものまねをきはめて、そのものに、まことになり入りぬれば、似せんと思ふ心なし。さるほどに、おもしろきところばかりを嗜めば、などか花なかるべき。たとへば、老人のものまねならば、得たらん上手の心には、ただ素人の老人が、風流・延年なんどに身を飾りて、舞ひかなでんがごとし。もとよりおのが身が年寄ならば、年寄に似せんと思ふ心はあるべからず。ただ、その時の、ものまねの人体ばかりをこそ嗜むべけれ。
べちにまた、老人の、花はありて、年寄と見ゆる口伝といふは、まづ、善悪、老じたる風情をば、心にかけまじきなり。そもそも、舞・はたらきと申すは、万に、楽の拍子に合はせて、足を踏み、手を指し引き、ふり・風情を、拍子にあててするものなり。年寄ぬれば、その拍子のあてどころ、太鼓・歌・鼓の頭よりは、ちちとおそく足を踏み、手をも指し引き、およそのふり・風情をも、拍子にすこし遅るる様にあるものなり。この故実、なによりも、年寄の形木なり。このあてがひばかりを心中に持ちて、そのほかをば、ただよのつねに、いかにもいかにも花やかにすべし。まづ、仮令も、年寄の心には、なにごとをも若くしたがるものなり。さりながら、力なく、五体も重く、耳も遅ければ、心はゆけども、ふるまひのかなはぬなり。このことわりを知ること、真のものまねなり。わざをば、年寄の望みのごとく、若き風情をすべし。これ年寄の、若きことをうらやめる心・風情を学ぶにてはなしや。年寄は、いかに若ふるまひをするとも、この拍子に遅るることは、力なく、かなはぬことわりなり。年寄の若振舞、珍しきことわりなり。老木に花の咲かんがごとし。

一、能に十体を得べきこと。十体を得たらんしては、同じことを一廻々々づつするとも、その一通りの間、久かるべければ、めづらしかるべし。十体を得たらん人は、そのうちの故実・工夫にては、百色にもわたるべし。まづ、五年・三年のうちに、一遍づつも、珍しくしかふるようならんずるあてがひを持つべし。これは大きなる安立なり。
または、一年のうち、四季折節をも心にかくべし。また、日を重ねたる申楽、一日のうちは申すにおよばず、風体の品品を色取るべし。か様に大行よりはじめて、ちちとあることまでも、自然々々に心かくれば、一期花は失せまじきなり。
またいふ、十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。年々去来の花とは、たとへば、十体とはものまねの品品なり。年来去来とは、幼かりし時のよそほい、初心の時分のわざ、手盛りのふるまひ、年寄りての風体、この時分時分の、おのれと身にありし風体を、みな当芸に、一度に持つことなり。ある時は、児・若族の能かと見え、ある時は、年盛りのしてかとおぼえ、または、いかほどにも、らふたけて劫入りたるように見えて、同じ主とも見えぬ様に能をすべし。これすなはち、幼少の時より老後までの芸を、一度に持つことわりなり。さるほどに、年々去りきたる花とは言へり。
ただし、この位にいたれるして、上代・末代に、身も聞きもおよばず。亡父の和歌盛りの能こそ、らふたけたる風体、ことに得たりけると聞きおよびしか。四十有余の時分よりは身なれしことなれば疑ひなし。自然孤児の物真似、高座の上にてのふるまひを、時の人、十六・七の身体に見えしなんど、沙汰ありしなり。これは正しく人も申し、身にも見えしことなれば、この位に相応したりし達者かとおぼえしなり。か様に、若き時分には、行末の年々去来の風体を得、年寄りては、過ぎし方の風体身に残すして、二人とも、見も聞きもおよばざりしなり。されば、初心よりの以来の、芸能の品々を忘れずして、その時々用々に従てとりいだすべし。若くては年寄の風体、年寄りては、盛りの風体を残すこと、めづらしきにあらずや。
しかれば、芸能の位上がれば、過ぎし風体をしすてしすて忘るること、ひたすら、花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折る枝の花のごとし。種あらば、年々時々のころに、などか逢はざらん。ただかへすがへす、初心を忘るべからず。されば、つねの批判にも、若木してをば、早く上がりたる、劫入りたるなど誉め、年寄りたるをば、若やぎたるなど、批判するなり。これ、めづらしきことわりならずや。十体のうちを色取らば、百色にもなるべし。その上に、年々去来の品々を、一心当芸に持ちたらんは、いかほどの花ぞや。

一、能に、万用心を持つべきこと。仮令、怒れる風体にせん時は、柔かなる心を忘るべからず。これいかに怒るとも、荒かるまじきてだてなり。怒れるに、柔かなる心を持つこと、めづらしきことわりなり。また、幽玄の物真似に、強きことわりを忘るべからず。これ、一切、舞・はたらき・ものまね、あらゆることに住せぬことわりなり。また、身をつかふうちにも、心根あるべし。身を強く動かすときは、足踏をぬすむべし。足を強く踏むときは、身をばしづかに持つべし。これは、筆に見えがたし。相対しての口伝なり。

一、秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分目を知ること、肝要の花なり。そもそも、一切のこと、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘することにおいて大用かるがゆゑなり。しかれば、秘事といふことを現はせば、させることにてもなきものなり。これを、させることにてもなしといふ人は、いまだ秘事といふことの大用知らぬがゆゑなり。まづ、この花の口伝におきても、ただ、珍しき、花ぞと、みな人知るならば、さては、めづらしきことあるべしと、思ひ設けたらん見物衆の前にては、たとひめづらしきことをするとも、見手の心にめづらしき感はあるべからず。見る人のため、花ぞとも知らでこそ、しての花にはなるべけれ。されば、見る人は、ただ思ひのほかに、おもしろき上手とばかり見て、これは、花ぞとも知らぬが、しての花なり。さるほどに、人の心に思ひもよらぬ感を催すてだて、これ花なり。
たとへば、弓矢の道のてだてに、強敵にも勝つことあり。これ負くるかたの目には、めづらしきことわりに、化されて、敗らるるにてはあらずや。これ一切の事、諸道芸において、勝負に勝つことわりなり。か様のてだても、こと落居して、かかる謀よと知りぬれば、その後はたやすけれども、未だ知らざりつるゆゑに負くるなり。
さるほどに、秘事とて、一つをばわが家に残すなり。ここをもて知るべし。たとへ、現さずとも、かかる秘事を知れる人よとも、人には知られまじきなり。人に心を知られぬれば、敵人油断せずして、用心を持てば、却て敵に心を附くる相なり。敵方用心をせぬ時は、こなたの勝つこと、なほたやすかるべし。人に油断をさせて、勝つことを得るは、珍しきことわり大用なるにてはあらずや。さるほどに、さが家の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。秘すれば花、秘せぬは花なるべからず。

一、因果の花を知ること。極めなるべし。一切みな因果なり。初心よりの芸能の数々は因なり。能を究め、名を得ることは果なり。しかれば、稽古するところの因おろそかなれば、果をはたすことも難し。これをよくよく知るべし。
また、時分をもおそるべし。去年盛りあらば、今年の花なかるべきことを知るべし。時の間にも、男時・女時とてあるべし。いかにするとも、能によき時あれば、かならず悪きこと、またあるべし。これ力なき因果なり。これを心得て、さのみ大事になからん時の申楽には、立会勝負に、それほど我意執を起こさず、骨をも折らず、勝負に負くるとも、心にかけず、手をたばいて、すくなすくなと能をすれば、見物衆も、これはいか様なるぞと、思ひさめたるところに、大事の申楽の日、てだてを変へて、得手の能をして、精励をいだせば、これまら、見る人の、思ひのほかなる心いでくれば、肝要の立会、大事の勝負に、さだめて勝つことあり。これ、めづらしき大用なり。このほど悪かりつる因果にまた善きなり。
およそ、三日に三庭の申楽あらん時は、さしよりの一日なんどは、手をたばいてあひしらひて、三日のうちに、ことに折角の日とおぼしからん時、善き能の、得手に向きたらんを、丹精をいだしてすべし。一日のうちにても、立会なんどに、自然、女時にとりあひたらば、始めをば、手をたばいて、敵の男時、女時に下る時分、善き能をもみよせてすべし。その時分また、こなたの男時にかへる時分なり。ここにて能よくいできぬれば、その日の第一とすべし。
この男時・女時とは、一切の勝負に、さだめて一方色めきて、よき時分になることあり。これを男時と心得べし。勝負の物数久しければ、両方へ移り変りうつりかはりすべし。あるものに曰く、「勝負神とて、勝つ神・負つ神、勝負の座敷を定めて、守らせたまふべし。弓矢の道に、宗と秘することなり。」敵方の申楽よくいできたらば、勝神彼方にましますと心得て、まづおそれをなすべし。これ、時の時の因果の二神にてましませば、両方へ移り変りうつりかはりて、またわがかたの時分になると思はん時に、たのみたる能をすべし。これすなはち、座敷のうちの因果なり。かへすがへす、おろそかに思ふべからず。信あれば、徳あるべし。

一、そもそも、因果とて、善き悪しき時のあるも、公案をつくして見るに、ただめづらしき・めづらしからぬの二つなり。同じ上手にて、同じ能を、昨日今日見れども、おもしろやと見えつることの、いままた、おもしろくもなき善きのあるは、昨日おもしろかりつる心ならひに、今日はめづらしからぬによりて、悪しと見るなり。その後、また善き時のあるは、さきに悪かりつるものをと思ふ心、また珍しきにかへりて、おもしろくなるなり。
されば、この道を究め終りて見れば、花とて別にはなきものなり、奥義を究めて万に珍しきことわりを、われと知るならでは、花はあるべからず。経に曰く「善悪不二、邪正一如。」とあり。本来より、善き悪しきとは、なにをもて、さだむべきや。ただ時にとりて用足るものをば善きものとし、用足らぬを悪しきものとす。この風体の品々も、当世の衆人・所々にわたりて、その時のあまねき好みによりてとりいだす風体、これ用足るための花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ人々心心のはななり。いづれをまこととせんや。ただ、時に用ゆるをもて花と知るべし。

一、この別紙の口伝・当芸において、家の大事、一代一人の相伝なり。たとへ一子たりといふとも、不器量の者には伝ふべからず。「家家にあらず、続くをもて家とす。人人にあらず、知るをもて人とす。」といへり。これ、万徳了達の妙花をきはむるところなるべし。

一、この別紙の条々、先年弟四郎相伝するといへども、元次、芸能感人たるによて、これをまた伝ふるところなり、これを秘し伝ふ。



応永廿五年六月一日             世(花押)